2009年4月29日水曜日

本とは何か

私には本というものがいろいろな意味合いを持っています。

本屋として出版物は雑誌であれコミックであれ、出版物流通を通して仕入れることができるすべてが飯のタネです。たとえ、総売上げ額に対して経費と人件費と税金を差し引いた純利益が有るか無いかというほどのごくわずかであるとしても本は飯のタネである事に間違いはありません。

一方、私は読者でもあります。図書館から借りても読みますし、自分の店でも買いますし、よその店でも買います。私自身の人生は本というものから受けた影響を抜きにしては考えられません。本との出会いはいくつもありました。その1冊は「TRONからの発想」坂村健(岩波書店)であり、「現代詩集」神保光太郎編(あかね書房)であり、「聖書」でもあり、、、、、、、今出会っているのは「梅田望夫」さんではないかと思います。

1987年、坂村さんはこの本によってその後22年たった今でも私に、パソコンの何たるかを見せてくれています。いまだにこの本は他の方に伝えなければいけないことをいくつも私の前に押し出してきます。22年前この本を読んだことによって、今あるパソコンの多くの問題のほとんどを先に知ることができました。みせてもらった道を確かめながらたどって進むことは、見えないものへの不安とか闇雲な試行錯誤に陥ることなく、あるはずの未来につながる灯りであり道しるべを自分の中にもっている、そういうことだったのだと、最近気がつきました。こういう場合、私にとってこの本は何といえばいいのでしょうか。

「現代詩集」は小学生であった私に自由詩、散文詩、俳句、和歌というさまざまな日本語の表現のあり方と日本語の美しさを理屈でも理論でもなく、そのものによって味わわせてくれました。その後の古典文学や近代の文学への入り口にもなりました。そして、歌という音楽への道に踏み込むひとつの要素にもなりました。詩という漢字は「し」とも読みますが「うた」とも読みます。「し」は「うた」になり、やがて人と人の歌声がかもし出すハーモニーという楽しみへと私を引っ張っていきました。詩は声に出して読めばやがて歌になります。啄木や髙村光太郎、深尾須磨子、正岡子規、佐藤春夫、島崎藤村、そして北原白秋、思い出せないほどたくさんの詩人が私に繰り返し口に出して味わいたい「美しいことば」をくれた本。

聖書はいまはおくとして、梅田望夫さんとの出会いはブログのほうが先でした。この方の「シリコンバレー精神」(ちくま文庫)「ウェブ進化論」(ちくま新書)は今という時代の切り口をみごとに言葉でもって開いて見せてくれています。

本というものは私自身の中にある、もやもやとした混沌とした思いを的確な言葉で定着してくれます。人はその思想を肉体による遺伝として次の世代に渡すことはできません。しかし、本は人の思想を文字という符号に託して汲み取ろうとする誰にでもわけ隔てなく隠すことなく伝えていきます。

前の記事で「本って何なのか」という自問を残しましたが、すぐそのあとで、「ルリユールおじさん」いせひでこ(理論社)の中の一節を読んだとき心臓がどきどきしてしまった自分に驚きを感じました。この絵本の45ページに次のように書いてありました、
「本には大事な知識や物語や人生や歴史がいっぱいつまっている。」
この本もきっと多くの子どもに出会いをもたらしてくれると思います。

まだ中途半端な、本とは何かな、は、また続く としておきます。


2009年4月27日月曜日

4月ももう終わるというのに


昨日の日曜日天気が大荒れの奈良でした。青森の書店からは桜の花見でにぎわうはずの弘前の日曜日は一面の雪だという便りだった。

今日の午前中、配達に出ましたが4月ももう終わりだというのに寒い。セーターを2枚重ねても寒そうだったのでジャンパーをさらに羽織って正解だった。道行く人も首にはマフラー、おうちの周りの花を手入れする方も綿入れを着込んでいた。

みなさま、おかぜなど召しませんように、豚インフルエンザのニュースといい、おかしな天気といい、なにがどうなっているのか、、、、

それはさておき、最近頭を悩ませている問題は本屋の売り上げがなくなってきていることもあってですが、、
「本」  って なんだろうという疑問です。これは本というモノをどう考え、どう扱っていくかという答えに行き着くまでが大変そうな疑問なのです。疑問の内容というか問題提起部分みたいなことを次の記事に出していこうかなと思っております。


2009年4月9日木曜日

図書館を使うという学習会

図書館と街づくりネットワークin大和郡山主催の学習会の案内です。
 講師は市立図書館館長の花木さんで学校図書館の話などもされるようです。児童生徒の読書環境として重要な要素のひとつである学校図書館について文部科学省がここ数年いろいろと政策を打ち出してきてはいますが大和郡山市内の公立小中学校を見る限り蔵書数も少なく学校図書館を取り囲む読書推進活動もいまひとつと感じられます。専任の学校図書館担当者は配置されていないようですが、学校図書館でお手伝いをされる方は増えてきているようです。お隣の奈良市に比べても半分くらいしかない学校図書予算の中で何とかしようとしておられる現場の先生方の努力にも限度があるのでしょう。学校図書館が電算化されてきたあたりからできるだけお手伝いをするようにしてきましたが一書店としても一個人としても限りがあります。仕組みとして学校図書館をサポートするような方向はないものかとこうした学習会に期待するところは大きいです。まずは現状を知って、関心を持っていただければ第一歩になると思います。
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2009年4月3日金曜日

コーヒー通はブラック?



 私はコーヒーが好きです。しかしコーヒーでなければいけないということではなくて、おいしくいれた日本茶も、ちょっと濃いめの紅茶もハーブティーもお抹茶もココア(ホットチョコレート)もおいしく楽しみます。(アルコールハゴカンベンシテクダサイ)

 で、あちこと出向く先でコーヒー好みが知られてコーヒーを出していただくのはたいへんありがたく感謝なのですが、どういうわけか、「ブラックでしょ?」とよく言われて返答に困るのです。コーヒーを好きな方はブラックだと思われているみたいなのですね。外出して時間のあるときの楽しみはスターバックスのキャラメルマキアートなのです。スターバックスのしっかりしたパン生地のサンドイッチととても良く合います。

 が、スタバのコーヒーを楽しむことは早々ありません、年に10回もないでしょう。普段は時間に追われてインスタントコーヒーなのです。砂糖はそのときの気分で多かったり少なかったり、ミルクは瓶牛乳から少し多めに。疲れているときは砂糖がおおめ、夜パソコンの傍らでのコーヒーは砂糖もミルクも少なめです。

 インスタントコーヒーでもおいしくいただくコツは器を暖めることです。コーヒーはホットで、真夏のどんな暑いときにでも熱々のホットでいただくのがおいしく思いますが、夏に冷たいコーヒーを出されてもありがたくいただいています。ようはなんでもよいのだろう、、そう、オッシャルトオリ、、です。一日に何杯飲むのか数えたことはありませんが、コーヒーがないとからだがだるく感じるのは間違いないですから、中毒なのかもしれません。

 なににしても、お茶の心、出す側いただく側の人の心と気遣いが一番大切なことは、またそのうちゆっくりと、