私には本というものがいろいろな意味合いを持っています。
本屋として出版物は雑誌であれコミックであれ、出版物流通を通して仕入れることができるすべてが飯のタネです。たとえ、総売上げ額に対して経費と人件費と税金を差し引いた純利益が有るか無いかというほどのごくわずかであるとしても本は飯のタネである事に間違いはありません。
一方、私は読者でもあります。図書館から借りても読みますし、自分の店でも買いますし、よその店でも買います。私自身の人生は本というものから受けた影響を抜きにしては考えられません。本との出会いはいくつもありました。その1冊は「TRONからの発想」坂村健(岩波書店)であり、「現代詩集」神保光太郎編(あかね書房)であり、「聖書」でもあり、、、、、、、今出会っているのは「梅田望夫」さんではないかと思います。
1987年、坂村さんはこの本によってその後22年たった今でも私に、パソコンの何たるかを見せてくれています。いまだにこの本は他の方に伝えなければいけないことをいくつも私の前に押し出してきます。22年前この本を読んだことによって、今あるパソコンの多くの問題のほとんどを先に知ることができました。みせてもらった道を確かめながらたどって進むことは、見えないものへの不安とか闇雲な試行錯誤に陥ることなく、あるはずの未来につながる灯りであり道しるべを自分の中にもっている、そういうことだったのだと、最近気がつきました。こういう場合、私にとってこの本は何といえばいいのでしょうか。
「現代詩集」は小学生であった私に自由詩、散文詩、俳句、和歌というさまざまな日本語の表現のあり方と日本語の美しさを理屈でも理論でもなく、そのものによって味わわせてくれました。その後の古典文学や近代の文学への入り口にもなりました。そして、歌という音楽への道に踏み込むひとつの要素にもなりました。詩という漢字は「し」とも読みますが「うた」とも読みます。「し」は「うた」になり、やがて人と人の歌声がかもし出すハーモニーという楽しみへと私を引っ張っていきました。詩は声に出して読めばやがて歌になります。啄木や髙村光太郎、深尾須磨子、正岡子規、佐藤春夫、島崎藤村、そして北原白秋、思い出せないほどたくさんの詩人が私に繰り返し口に出して味わいたい「美しいことば」をくれた本。
聖書はいまはおくとして、梅田望夫さんとの出会いはブログのほうが先でした。この方の「シリコンバレー精神」(ちくま文庫)「ウェブ進化論」(ちくま新書)は今という時代の切り口をみごとに言葉でもって開いて見せてくれています。
本というものは私自身の中にある、もやもやとした混沌とした思いを的確な言葉で定着してくれます。人はその思想を肉体による遺伝として次の世代に渡すことはできません。しかし、本は人の思想を文字という符号に託して汲み取ろうとする誰にでもわけ隔てなく隠すことなく伝えていきます。
前の記事で「本って何なのか」という自問を残しましたが、すぐそのあとで、「ルリユールおじさん」いせひでこ(理論社)の中の一節を読んだとき心臓がどきどきしてしまった自分に驚きを感じました。この絵本の45ページに次のように書いてありました、
「本には大事な知識や物語や人生や歴史がいっぱいつまっている。」
この本もきっと多くの子どもに出会いをもたらしてくれると思います。
まだ中途半端な、本とは何かな、は、また続く としておきます。
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